自然体の体温で

 手紙、ラジオ、本。こういったメディアは不完全さを併せ持っているように思う。インターネットで誰とでもいつでも繋がれる時代においては、手紙は相手に情報を伝える「時間」という軸で考えてみると雲泥の差なはずで。ラジオ、こちらも映像などもセットで情報を届けるテレビやYOUTUBEといったものと比べると映像やコメントなどを合わせて目で見ることができない分、今となっては少し古びた印象のあるメディアだろう。そして本。言葉が中心のメディアの一つではあるのだけれど、こちらもTwitternoteといった呟きたい時に呟け、文章にしたい時にだけ文章にできる印刷の手間が無いデジタルメディアと比較すると、所謂トータルの“コスパ”が悪いという烙印を押されることだろう。

 けれど、自分が好きで自らが選んでいるメディアは何かと問うてみると手紙、ラジオ、本といったこれらを挙げることがとても多い。その理由は、ある意味、便利さというポイントではテレビやインターネット、SNSには劣っているのだけれど、共通しているのが「感情」や「体温」を感じられるからなのだ。無いことに目を向ければキリがないのだが、見方を変えて見立ててみるのはいかがなものか。相手に届くまでの「時間」がかかる分、視覚的な映像が届かない分、物理的な制約がある分、相手から届いた文章の行間や、言葉や声の間などが、想像力を掻き立てられ自分のこころにしっかりと届いているような気がするのだ。

 

 

 

 長野県の上田駅から新幹線「あさま」に乗り込み、東京駅まで約90分。移住をする前なら東京からまだ見ぬ旅路に思いを馳せながら、目の前に広がる非日常の世界を楽しむところだが、それが逆方向になるだけで少し憂鬱な気持ちになったことに気がついた。これは北欧へ取材で旅する行きの飛行機と帰りの飛行機の気持ちの違いや憂鬱さにも通じるところがある。この憂鬱さの原因は、自然もしくは自然体が見えにくいという、不自然さに他ならない。東京に住んでいたころは何とも思っていなかったのに、新幹線の進行方向が変わっただけで東京駅のプラットフォームから丸の内のオフィス街の人工的な構造体を眺めていると、本来変化のある自然がないことへの不自然さや不安を感じ取ってしまったのだ。

 自然とは、「自らが然り(そのとおり)」と書き、「人為の加わらない様子」や「わざとらしくないこと」といったように存在というよりは状態を表す本来の意味がある。明治以降に入ってきた西洋的な考えから自然と人間を対立構造的な意味として捉えてしまうのだが、もともとの日本人の自然に対する考え方は、人間も自然の一部であり根源的なつながりを持ち続ける部分という認識だったのだそうだ。こういった西洋との自然観の認識の違いがある中で北欧諸国は冬の厳しい寒さや日照時間の短さ、その反面、夏至近くに見られる白夜といった自然現象が有無を言わせず感じられ、その自然現象をありのまま受け止めるところをみると他の西洋諸国よりも自然に対する考え方が少し日本人のそれに近いことが伺えるのではないだろうか。現にコペンハーゲン、ストックホルム、ヘルシンキ、オスロといった各国の首都の街を考えてみても東京よりもダイナミックな自然が街中に溢れている。これは何も自然に対することだけでなく、そこで生活している人たちの生き方や佇まいにも影響を与えているように思う。なによりないものねだりし過ぎず、ありのままを受け入れる姿は自然体そのものなのだ。

 

 

 

 デンマークの首都コペンハーゲンのヴェスタブロ地区にあるCentral Hotel & Caféがとても好きだ。世界一小さいカフェとして世界中からの旅人を魅了しているカフェ兼ホテルなのだが、そのスペースの小ささは驚かされる。二、三人が店内に入れば少し手狭に感じてしまうほどなので、ゆったりくつろげるかといったらそうではない。けれど、飲み物を頼むとビスケットをサービスでつけてくれたりする心遣いやローカルの人たちとの会話が繰り広げられている風景を見ているだけで、心が温まってくるものだ。

 

 

 できないこと、足りないことに目をむけるのは簡単だ。けれど、ありのままを受け入れるということは実は最も難しいことで、これからの時代にとても大切な視点、姿勢なのではないだろうか。自然なものが近くになくとも、都会のような刺激的で文化的なことがなくとも、極夜で日中の陽射しの当たる時間がままならなくとも、カフェの空間が少し手狭でも、それらそれぞれが土地や場所の個性であって、この個性を活かす姿勢こそが過度な合理化した社会を居心地よくしていく一歩になっていくのだろう。

こちらのコラムは2021年2月27日に配信されたニュースレターの内容の再編集版です。
https://mailchi.mp/2607b89b93e7/gy8mjvpqr5


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